●カナディアン・ロッキーとスイスの関係
シャトー・レイク・ルイーズの前、湖畔の遊歩道に近いあたりに、その小さな銅像は立っていた。
近くに行って見ると、台座となる大きな石の上に、小さいが一人の人間の全身像が建てられている。その人物は、ニッカボッカをはいたクラシックな登山スタイルで、リュックを背負い、杖をついて、足を一歩踏み出した格好で、顔はまるで高い山の頂上を仰ぐように空を向いていた。
台座の石には、英語とフランス語でこう刻まれたプレートが埋め込まれていた。
Canadian Pacific Railway
Swiss Guides Centennial
1999
スイス・ガイド100年記念とある。
Canadian Pacific Railway(以下CPR)がカナディアン・ロッキーを観光地として開発する時に、1899年から50年に渡って、多くのスイス人ガイドを雇い入れたのである。
私が持っているカナディアン・ロッキーの歴史写真集を見ると、スイス・ガイドたちは、この銅像に見られるように、ニッカボッカに登山靴で、ちゃんと襟付きのジャケットを着込み、中にはセーターやベストの襟元からネクタイが見えている人もいる。けっこうきちんとした格好をしていたのだ。そして、口にはパイプ、手にはアルペンストック、肩にザイルの束をかけ、fedoraと呼ばれる帽子をかぶるのが、彼らの粋な定番スタイルだったと書いてある。本当にどのガイドもパイプをくわえており、髭をはやしている人が多い。
このスイス・ガイドたちは、大陸横断鉄道が開通し、CPR経営のバンフ・スプリングス・ホテル(1888年開業)とシャレー・レイク・ルイーズ(同1890年。当時はまだログ・キャビン1軒だけで“シャレー”と呼ばれていた)が相次いでオープンした後のカナディアン・ロッキーに、多くの観光客を呼び寄せることに多大な貢献をし、世界に名だたる山岳リゾートとしてバンフの町が発展していく礎を築いたのである。
最初の頃は、シーズン・オフには帰国していたが、やがてずっとロッキーに住むようになってしまい、この地に骨を埋めたスイス人も少なくないそうだ。
プレートに刻まれた文章を読んでつくづく関心。今まで、ロッキーの開拓初期にスイス人ガイドがいたことは知っていたが、こんなにたくさん雇われ、このように当地の発展そのものに貢献していたとは知らなかった。
それでヨーデルおじさんがいたのだ。そういえば、ホテルの従業員たちの制服(特にドア・ボーイ)もアルペンちっくであることを思い出した。
この銅像のほかにも、シャトー・レイク・ルイーズ内には、カナディアン・ロッキー開拓の歴史を示すモノクロ写真の額が、至る所に飾られていた。これらも今回初めて目にしたので、きっと1999年にスイス・ガイド100周年を記念して、飾られるようになったのだろう。
売店には、「Swiss Guides 1899 - 1999」という文字と、ザイルを使って登山する2人の人物のシルエットが刻まれた、しぶい銅色のバッジが売られていた。シュテファンはさっそく購入してリュックに付ける。意外なところで、スイスとカナディアン・ロッキーの関係を知り、私たちはなんだかうれしい気分になっていた。
<参考文献>“The Canadian Rockies: A History in Photographs” Graeme Pole著(Altitude刊)