●テリー・フォックス(4)
1980年4月12日。テリー・フォックスは、ニュー・ファンドランド州の東端セント・ジョンズで義足を大西洋の水に浸し、カナダ横断の「マラソン・オブ・ホープ」をスタートさせた。
1日に42km走るのが目標だった。それは、すなわちフル・マラソンの距離だった。
彼はまずニュー・ファンドランド島を横断。島の西端のポート・オ・バスクに5月6日に到着している。ここに来るまでに、テリーは既に手応えを感じていた。途中の町で、たいへんな歓迎と激励を受け、寄付も集まったからだ。彼は自分が夢見てきた計画を、今実行できていることに、喜びを感じていた。
5月15日、フェリーでノバ・スコシア州に渡った。
実は、私はテリーの「マラソン・オブ・ホープ」を追ったドキュメンタリー番組のビデオを持っている。昨年、バリアフリー留学で取材させていただいたESLの先生からいただいたものだが、それは私が初めてテリー・フォックスを知ったテレビ番組を収録したものだった。
これには、マラソン中のテリーの肉声が入っている。テリーは、金髪の巻き毛でまだ少年っぽさの残った顔をしているが、声は意外に太く落ち着いている。そして、失った右足以外は、スポーツマンらしく、ガッシリした体つきだ。
改めてビデオを見てみると、横から見る彼の走りは、義足を軸にして一歩踏み出すストライドが大きいので、けっこうスピードが出せるようだった。ただ、時々義足の付け根に手をやるしぐさが見られ、やはり走るということで相当な負担がその部分にかかっていることを感じさせた。
それでも、苦しそうな顔を見せることは、ほとんどなかった。ただ、黙々と走っていた。
ノバ・スコシア州とプリンスエドワード島で、彼は走りながら、風景の美しさをとてもエンジョイしたそうだ。この頃には、既にテレビのニュースなどで、多くの人が「マラソン・オブ・ホープ」のことを知っており、テリーは行く先々で熱烈な歓迎を受けている。
5月のアトランティック4州の気候は、まだまだ肌寒いのだが、テリーはいつでもショートパンツで走り続けた。それは、癌で失った右足の代わりの義足が見えるように、だった。
その後、6月6日にニュー・ブランズウィック州、6月15日にケベック・シティ、6月28日にオンタリオ州へと、順調に走っていった。
ビデオには、各地での様々な歓迎ぶりが残されていた。コミュニティーセンターで、体育館で、あるいは大きなショッピング・モールの吹き抜けの広場で、テリーは人々に囲まれ、スピーチを行なった。自分が右足を失った理由と、「マラソン・オブ・ホープ」の目的を語り、癌研究のための募金をお願いした。翌日は、また早朝からスタートした。雨の日も風の日も走った。
7月1日のカナダ・デー(カナダの建国記念日)。首都オタワでは、カナディアン・フットボール・リーグのエキシビション・ゲームがあり、彼は始球式でボールを蹴る大役をつとめた。テリーがスタジアムに入って来た時、16,000人の観衆は一斉に立ち上がって、スタンディング・オベーションを贈った。
トロントでは、市庁舎前の広場が埋め尽くされるほどの人が集まり、テリーはそこでもスピーチを行なった。この頃には、カナダでテリーを知らない人はいないほどになっており、彼がこの「マラソン・オブ・ホープ」を完走できることを、誰もが願っていた。
沿道で応援してくれる人も多かった。わざわざ家から出てきたり、キャンプ場から飛び出して駆けつけてくる人もいた。ジョギングしている人たちが、伴走してくれることもあった。
ハイウェイを通る車は、テリーを見かけると、みんなクラクションを鳴らして、彼を激励した。
7月28日の誕生日には、どこでも沿道の人たちが「ハッピー・バースデー」を歌ってくれ、テリーは手を振ってそれに応えた。
しかし、街を抜けると、あとは大自然の中の道が延々と続いているだけだった。多くの道程を、彼は一人で淡々と走った。その孤独な姿は、テリーが癌と戦う姿そのもののようだった。
広大なオンタリオ州も半分を過ぎた。
ある日、小雨と疲れのため、早めに車に乗り込んだテリーのところに、応援する人々がやってきて、激励の言葉をかけた。
それに応えるテリーだったが、話している間じゅう、変な咳が止まらなかった。
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