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●2人が成し得たことと、もう1人の人物

このコーナーでは、10回にわたって、テリー・フォックスとリック・ハンセンの物語をお伝えしてきた。2人が成し得たことの大きさは、今さら言うまでもないが、当初の目的を達成したあと、その意志を持ち続け、その後の人生をどう生きるかということは、マラソンやツアーよりも、本当はもっと大変なことかもしれない。

実は、この2人の陰に、もう1人の男がいた。彼はテリー・フォックスと同じく、癌で片足を失い、テリーに触発されて、カナダ横断に挑戦。そして、見事に横断を成し遂げたのだが‥‥

その人物の名は、スティーブ・フォンニョ。彼は12歳の時に、癌で片足を失った。フォンニョにとって、「マラソン・オブ・ホープ」のテリー・フォックスは、まさにスーパー・ヒーローだった。
テリーがサンダー・ベイを出た後で、癌の転移のために「マラソン・オブ・ホープ」の続行を断念した時、フォンニョは、自分がその続きを走りたいと思った。やがて、彼は彼自身のマラソンで、カナダを横断しようと考えるようになる。

テリーが亡くなってから、まもなく3年の月日がたとうとしていた1984年3月31日、フォンニョはテリーと同じように、ニューファンドランド州セント・ジョンズで、大西洋の水に義足を浸し、彼の「Journey For Lives」をスタートさせた。その時、彼はまだ18歳だった。

サポート・チームはキャンピング・カーで伴走していた。彼は毎日、膨大な量のコークを飲み、大好きなジャンクフード、チーズ、ドーナツを食べながら厳しい気候に立ち向かった。

そして1年2カ月後、彼はついに横断を果たす。1985年5月31日、フォンニョはブリティッシュ・コロンビア州のビクトリアで、太平洋に到達したのだった。彼が走った全距離は7924km、癌研究基金として集まったお金は1300万ドルにもなった。
再び、カナダ中が熱気に包まれたことは言うまでもない。

ただ、報道関係者は最初から結構クールに見ており、常にテリーと比較していた。たしかに、技術の発達で、新しい義足は、地面に足をついた時の衝撃を吸収するようになっていて、テリーの頃より走るのがいくぶん楽になっていた。それに、1日の目標距離は32kmとテリーより10km短く、ペースもゆっくりだった。それだけではなく、彼が気紛れな性格で、無遠慮なほどずけずけ物を言うことも、伝えられている。そういったことを間近に見ていた報道関係者は、フォンニョという人物に、手放しの賞賛を贈れなかったのかもしれない。

その後、フォンニョはイギリスに渡り、今度は British Cancer Society のために、北から南へ縦断するチャリティ・マラソンを行なっている。
これらの活躍から、フォンニョは20歳になるまでに、カナダのナショナル・ヒーローになってしまったのだ。

しかし、こうした熱狂は長くは続かない。祭りはいつかは終わるのだ。
やがて熱気は冷め、連日のように続いたメディアや人々の興奮は、当然のことながら少しずつ沈下していった。
それとともにフォンニョはだんだん酒に溺れるようになり、彼の激しやすい性格も手伝って、しばしば問題を起こすようになる。特別施設にも入った。裁判所へも何度も出廷し、ついには禁固6カ月を言い渡される。仮釈放されて2日もたたないうちに、また飲み始め、ケンカをして、レストランのウィンドウを壊し、また留置場へ逆戻り‥‥。
新聞はこれらの事件を書きたてた。あれだけの偉業にも関わらず、彼はもはやアンチヒーローでしかなくなってしまった。

「若さ」ゆえの失敗だったと言えるかもしれない。20歳になるかならないかで、国民的ヒーローになってしまい、どこに行っても熱狂的に歓迎され、握手やサインを求められ、Cancer Society から感謝され、成功者の扱いを受け‥‥。
勘違いしてしまったのだろう。
そして、目的を見失った‥‥
彼の本当のゴールは、太平洋ではなかったはずだ。

フォンニョがゴールする約2カ月前、リック・ハンセンが「マン・イン・モーション」の世界ツアーをスタートさせている。彼は年齢的にもずっと大人だったし、数々の車椅子マラソンやロサンゼルス・パラリンピックを経験している。祭りの熱は冷めるものであることを、知っていたのだ。オリンピックなんて、そのいい例と言える。一部の有名選手を除いて、メダリストの名前をみんなどれだけ覚えているだろう?

加えて、ハンセンには強い意志と目的意識があった。「マン・イン・モーション」のゴールから新たに始まる未来を見据えていた。だからこそ、着実に、脊椎損傷の研究機関を設立し、拡張していくことができているのだろう。

彼にとって、「マン・イン・モーション」のツアーはまだ続いているのだ。
「マラソン・オブ・ホープ」が年1回の「テリー・フォックス・ラン」に引き継がれて、ずっと続いているように。
本物は、このように地道に続いていくものなのだ。短期間でパッと盛り上がって終わってしまうのではなく‥‥。

2人が成し得たことが、人々の心と社会に残したものは、言いようもなく大きかった。

参考文献:「The Greater Vancouver book」