●父との最後の時間
よく、肉親が亡くなる時は身のまわりでいろいろなことが起こると聞く。いわゆる“虫の知らせ”というやつだ。
私にもそんなことがたくさん起こった。偶然にしては多すぎた。言葉ではうまく説明がつかないことばかりだった。
両親がカナダ旅行に来た6月、私は既に移民ビザを申請していた。その時点では取れるか取れないか全く分からなかったので、まだ誰にも話していなかった。
しかし永住権(=移民ビザ)取得は、カナダに来る前から私の念頭にあった。
申請後はすべて順調に進行し、なんと面接なしでビザがもらえることになった。
年が明けてすぐ、私は移民ビザの用紙を手中にしていた。これに移民官のサインが入り正式なビザとなるには、一度国外に出なければならない。そして再入国する際にイミグレーションでサインをもらうのである。だからすぐに欲しい人は、ちょっとだけ国境から出て戻ってくる。
私は特に急いではいなかったので、いつ国外に出ようか考えていた。そして、どうせカナダを出るのなら、永住権が取れた報告に一度帰国しようかと思うようになった。それまで、まわりの友達は年末年始に日本に帰ったりしていたが、私はひたすらガマンしていたのだ。でも永住権が取れたら働くことができるので、ここで多少残りの資金を使っても後はなんとかなる。
その年の3月末、私は1年9カ月ぶりに日本に帰った。
それに先だって、両親に手紙を書いた。こちらで働いて収入を得るために永住権を取ったこと、日本国籍は失っていないこと、1年のうち半年以内ならカナダを離れられるので長期帰国もできることなど、永住権の利点を強調して書いた。「移民」という言葉は絶対使わなかった。両親の世代がこの言葉に抱くイメージは、決していいものではなかったからだ。
どれもこれも両親を心配させないための配慮だった。その甲斐あって、妹の報告によると、別にショックを受けている様子はなく、むしろ生活費のことなどを考えると、カナダで仕事ができるようになることを喜んでいるようだった。
帰国して3月末から5月の連休過ぎまで滞在し、久しぶりの日本の春を堪能した。幼馴染みに会い、東京の友人に会い、仕事仲間に会い、お世話になっている雑誌編集部を訪ね、会社の元上司に会い・・・。毎日のように東京に行っていた。
その頃はまだ交際中だった夫が、日本語の勉強のため、同じ期間日本に来ていたので、案内がてらよくお花見にも出かけた。
父の提案で家族旅行もした。近場の温泉に行ったのだが、その夜に遺言めいたことを家族に話した。今から思うと、父はもう近づいてきているものを感じていたのかもしれない。
5月の連休中は、姉も帰省し、日本語学校を終えた彼も家に来ていたので、にぎやかだった。彼のことは、この時初めて両親にきちんと紹介した。日本語を少し話し、和食や日本のお風呂が大好きな彼は、家族とあまり違和感なく我が家に10日ほど滞在した。
カナダに帰る前日、写真館に家族写真を撮りに行った。これも父の提案だった。
リューマチで体が痛いせいか、急に弱々しくなり、すっかり気力が衰えてしまった父を、私はなんとか励ましたかった。しかし、どんな言葉をかけてもあまり効果はなかった。「今度のお正月は帰ってくるから」と言っても「帰ってこなくていいよ」などと返されてしまい、とまどった。父にしてみたら、旅行の時にもう言いたいことは全部話した、という気持ちだったのだろう。
再び妹に後をたくして、私たちはカナダに戻った。
その2日後、父は2度目の心筋梗塞におそわれた。夜半に緊急入院。妹はすぐ私に電話したが、運悪く留守だった。今度は彼の故郷スイスに行くため、ちょうど空港に向かっていたところだったのだ。
それからスイスに着くまでの15〜16時間、妹は私をつかまえられなかった。ずっーと後になって、アパートの留守電に残された妹の泣き声のメッセージを聞き、申し訳なさでいっぱいになった。
入院翌日は意識もあり小康状態を保っていたが、2日後に容態が急変。家族と伯父に見守られ、息をひきとった。享年75歳だった。
●訃報
それから私に連絡が来るまでの経緯には、不思議なことがたくさんあったのだが、それを書いていると、とてつもなく長くなってしまうので、ここでは省略する。
スイスに着いた翌朝、彼の家で訃報を聞いた。姉が電話をかけてきたのだ。私は訳が分からなかった。つい数日前、元気で別れたばかりなのに‥‥。それに、バンクーバーを出る前に実家にFAXを送ってきた。わずか2日前のことだ。いったいこの短い間に何が起こったのだろう?
ショックと深い悲しみの一方で、ついにこういう時が来たか…と事態を冷静に受け止めている自分がいた。永住権をとり、カナダに住むことを決意した時から、いつかこういう日が来るかもしれないという覚悟はしていた。覚悟をしなければ、異国に住む決心はできなかった。
それでも私はまだ運がいい方だった。訃報を受けてすぐ日本に帰ったが、既にお骨になっていた、という話も後でたくさん聞いている。
私に連絡が来たのが午前11時頃。前日の夕方、会ったばかりの彼のご両親は、事態を知って涙ぐんでくれた。すぐ日本行きの便を調べたら、午後2時にJALの直行便があり空席があった。彼も一緒に来てくれることになり、ほとんど開いていなかった荷物をまとめ直して、すぐ空港へ。ご両親が車で送ってくれ、励ましてくれた。
12時間のフライトの間、私はずっと泣きっぱなしだった。食事はほとんど喉を通らなかった。一人だったら、どんなに心細かったか…。彼が一緒に来てくれて、本当にありがたかった。
朝9時に成田到着。スカイライナーとJRを乗り継ぎ、実家に向かう。お昼頃、家に着いた。父はまだ部屋に寝かされている状態だった。納棺もされていなかった。
後から続々訪れた親戚の人達に「ミツヨちゃん、よくこんなに早く帰って来られたわねぇ」と驚かれた。
バンクーバー → チューリッヒ → 日本と、ずっと時差の中を旅していたので、実は今が何日の何時なのか、分からなくなっていた。妹に「亡くなったのはいつ?」と聞くと、昨日の午後4時頃とのこと。そんなわずかな時間しかたっていなかったのだ。もう2〜3日過ぎてしまったかのように感じていた。
つまり私は、日本時間のナイトフライトで戻って来たのである。チューリッヒにいたことと、連絡が来た時間のタイミングが絶妙だった。もし私がバンクーバーにいたら、こんなに早く家に帰れなかったことが後で計算してみて分かり、愕然とした。私は地球上でベストな地点にいたのである。
●家族との関わり
父の死に目には会えなかったが、まったく後悔はなかった。その直前の1カ月半、ずっと一緒にいたからだ。
昔から「親の死に目に会えないのは親不孝」と言われているが、そういうものでもないだろう。もし私がこの春帰国しないで、死に目にだけは間に合ったとしても、もっと後悔していたはずだ。
移民申請を出す時、「親の死に目に会えないかもしれないのが気になる」と年長の友人に話したら「どこにいたって会えない時は会えないわよ」と達観した答えが返ってきた。彼女は結婚して実家から遠く離れたところに住んでおり、事故で亡くなったお父さんの死に目には会えなかったのだ。
要は、普段からどれだけコミュニケーションがとれているか、だと思う。コミュニケーションとは、言葉だけでなく、日本人的な以心伝心のコミュニケーションも含む。
家族との関係は、いい状態にしておくにこしたことはない。
出発前および滞在中、次のことは心がけよう。
★日頃のわだかまりはなくしておく★
わだかまりを残したまま永遠の別れという事態になると、一生後悔するらしい。ケンカしているなら謝り、留学に反対されているなら、誠意をもって留学したい理由を説明しよう。
ポイントは、親に全部分からせようとしないこと。2〜3割でも分かってくれたら御の字だ。特に父親はガンコで、男親のメンツもあるから、理解していてもそうでないフリをすることがある。押し付けがましくない程度に自分の心情を説明できれば、親というものは心の奥底では受け入れているものなのである。
★「心配」や「思いやり」は素直に言葉で表現する★
照れてなかなか言えないのが、この手の言葉。でも、そういう気持ちがあるなら、ちゃんと伝えよう。口頭でなくても、手紙やFAX、E-mailに書けばいい。
私も最初はなかなか言えなかったが、使っているうちに慣れてくるものである。そのうち自然に出てくるようになり、言われる相手にも照れがなくなってきた。今は自然にお互い伝え合えるようになっている。
★親がE-mailを使えるようにしておく★
海外にいるとE-mailのありがたさがことさら身にしみる。日本のご家族が既にE-mailを使えるなら、こんなに便利なことはない。まだ使えないお父さんやお母さんには、ぜひ使い方を教えてこよう。
現地では、ラップトップを持ってない人でも、ESLや大学のコンピュータルームを使う、インターネットカフェを利用する、ホストファミリーのコンピュータを借りる、などいろいろ方法がある。